SATO私的SR開発ストーリーⅠ (2006年7月)

忙しさにかまけて、長らくエッセイを休んでしまった。と言うより、AAAホームページを一年以上更新できていない。多忙という言い訳はあまり好きではないが、まあ年齢のせいもあって、時間に僕の体力がとてもついていかない、ということだろう。ただ、更新していないことを忘れていた訳ではなく、むしろ、とても気になっていたことは確かだ。

で、今回からの話は、僕が仕事上での伴侶とも言えるSRの開発小話とでも言おうか、私的に、かつ思うがままに、583・IE6・2J2・2H6に関して話を進めたい。583~から始まるこの記号は、ヤマハ社内で使用する機種コードだ。583はTT500、IE6はXT500、2J2はSR500、2H6はSR400と、最初期各モデルのコードネームである。本来は国内外の繁雑な各機種を記号で表し、社内のみで使用されていたものだが、昨今はマニアの間で“通”な呼び方として持て囃されているようだ。

1973年2月、僕は、ヤマハ発動機の営業マンとして中途入社した。配属は与野市(現さいたま市)の営業所で、毎日が企業戦士とも言える過酷で多忙な日々であった。入社後1年位して、発売間もないTX650の市場調査会議があるという。「オートバイのことに妙に詳しいSATO、君が出席しなさい}と上司に言われ、当時、銀座6丁目にあったヤマ発の東京支店に出向いた。会議の出席者は、TX650担当の技術者と商品企画担当者がヤマ発本社から。関東圏の各営業所からは、営業マンと営業技術(サービスメカニック)など、かなりの人数が広い会議室に集まっている。今でこそ、マニアに人気の高いXS-1やXS650だが、発売当初からトラブル続きで不人気だった。トヨタの技術提供を受け、肝煎りで販売したTX750は、更に酷くクレームの山となり、交換したエンジンは営業所にゴロゴロ転がっていたものだ。2サイクルメーカーが造った4サイクル車は駄目と、ユーザーやバイク販売店から総スカンをヤマハは喰っていた。

TX650はある意味、ヤマハにとっては背水の陣ともいえる商品だったはずだ。TX650はXS-1の弱点を改良し、かなりレベルアップしたものとなっていた。ただ市場評価は、必ずしも良好といえるまでにはなっていない。会議の出席者からは、「CB750やZ2のような、売れる4ストマルテを造って欲しい」と言う声が大多数を占めた。そして会議は長時間・多岐に渡って意見が交わされたのを思い出す。

僕がこの会議に出席すると聞いた先輩営業マンから、「SATO君、今ドウカティ・デスモ450が売れている。会議に出たらヤマハ本社がデスモのような4スト単気筒を造る気があるかどうか聞いてこいよ」と耳打ちされた。確かに巷では、デスモ450がよく走っている。カフェスタイルはとても格好がいいし、以前からBSAゴールドスターDBD34の速さは、僕なりに理解していたから、4スト単気筒にはとても興味があった。先輩営業マンの依頼は、僕にとっても興味深いのは確かだ。

会議は終盤となり、議題が一般質問に移る。早速僕は、「4スト単気筒を造る予定があるかどうか」と問いただしてみると、商品企画担当者から、「今やっている」と答があっけなく返ってきた。会場のあちこちから「ホー」という声が聞こえてくる。僕は思わず心の中で「やったー!」と叫んでいた。なにせ僕達末端の営業マンには、ヤマハ本社でどんなバイクが開発されているかを知る術はまったくなかったのだから・・・。

日本のビッグシングルは、技術面の問題もあって市販化が難しいと当時言われていた。1959年メグロZ7(500cc)が生産中止され、国産ビッグシングルは姿を消して、空白のカテゴリーだった。海外でも、BSAゴールドスター500SS(DBD34とはまったく別物)、ドウカティ・450デスモ、サングル500、エンフィード・インデア・ブレッドなど、少量生産にとどまっているに過ぎない。
もし、ヤマハがビッグシングルを発売するとなると、どんなバイクになるだろうか。僕はいろいろ想像しながら帰路についた。

YAMAHA XT500

会議から約2年後、1976年2月、待望のビッグシングルがヤマハからリリースされる。発表前から噂されていたビッグシングルオフローダーXT500が、期待の中登場した。まさかこのXT500が、僕の半生を変えてしまうとは、その時点では思う術もない。

写真のXT500は、後期方のオーストラリア仕様で、程度はとても良い。今回車検に入庫したもので、購入後8年以上経つが、当初からAAAがメンテナンスをしている。本来は初期型を出す予定であったが、2階奥に鎮座しているので、よく見ることもできない。いつか日の目を見せたいものと考えているのだが・・・。

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